照明について
一年前の初秋、私は国道7号を走っていた。
正確に言うなら、走っていたというより、司馬遼太郎さんのように助手席に座っていた。
青森に向かって走ると、助手席側が海側になる。
昼であれば穏やかで深い青色をした日本海が見え、目にも嬉しい風景だがその時は深夜3時であった。
ただただ真っ黒な波のない海が空との境界線もない。無限の闇が広がっているように見える。
自分たち以外には人の気配もなく、左を向けば海、右を向けば山。波のほかに音も聞こえず、耳鳴りがするほど静かであった。
内陸部に比べて湿気があり、潮風で肌がべたつく。気温も生温い。遠くに公衆電話の光がぽつんとある。今どき、あんな場所にある電話を誰が使うというのか。
車が止まり、私はそんな状況で1人になった。
彼は写真を撮りにさっさとどこかに行ってしまう。
耳が痛いほどの静寂と、真っ黒な海、車のライトに照らされた奇岩の崖。
とても耐えられない。妙な汗をかき、全く寒くないのに体が震えだした。歯まで鳴るほどに震えた。
その時に、ゴーっとすごい音がこちらに近づいてきた。大きなトラックが、新潟方面に走っていった。そのあとはまた静まりかえり、ひたすら1分が長い。
ぽつぽつとある家も明かりはなく、久しぶりにこんなに怖い集落に出くわした。数ヶ月前の外ヶ浜にあった漁村も降り頻るみぞれの中で灰色に並んでいた。
東京の街を、けばけばしいネオンで飾る人間を不思議に思っていたが気持ちが良くわかった。暗闇にいると人間は明かりを求める。都心が夜中までこういった恐怖感を抱かせないのは、必ずある誰かの存在感、空が明るくなるほど過剰な照明があるからだ。
人間は蛾を嫌がるが、人間だって蛾みたいなものだ。蛍光灯に当たる蛾を見て笑っていたが、私だって都心の灯りに集まる蛾の中の1匹であった。誰かいないと怖い、明かりがないと怖い。
人間が嫌いなのに、周りに見知らぬ人がいることに無意識に支えられていたのだ。無駄につけられた照明に不安感を消されていたのだ。
このことがあって、私は照明が好きになった。穏やかな灯りは、人の心を落ち着かせる。
谷崎潤一郎の陰翳礼讃は、特に闇と影の大切さを説くが、その二つを活かすのはまさに灯りであると身をもって知った。隅から隅まで照らし尽くすのも良くないが、暗すぎるのも良くない。
それからというもの、退勤中の電車の車窓から見えるタワーマンション群の灯りを眺めながらちょうど良い照明を考えている。