好きなもの雑記

好きなものについて色々書きます。たまに愚痴る

自由の風が吹く街、香港

 今朝、父が「イップマン」を観ていた。シリーズを通して何回も見るほど好きな映画なのだろう。

私が小さい頃も、「ポリスストーリー」やら「ラッシュアワー」「燃えよドラゴン」、とにかくいろいろな香港映画を一緒に観ていた。ストーリーがはちゃめちゃだったとしても、アクションは世界随一で、人を笑わせることに長けた映画が多かった記憶がある。

 

 そんな懐かしい思い出があり、ハイティーンの頃に観た王家衛監督の「恋する惑星」、「花様年華」。そんなことが重なり、私にとって香港は懐かしい風の吹く、巨大雑居ビルが並ぶ賑やかで自由な都市という場所だった。

 私は香港に行ったことはないのだけど、いつか必ず行ってみたい場所であった。

香港に行ったら、重慶大厦に行って勇気を出して泊まってみたい。九龍城砦の跡地に行きたい。ネイザンロードを歩き、あの長いエスカレーターを乗り継ぎたい。

それが小さい頃から飛行機が大嫌いな私がずっと密かに願い続けていた小さな夢だった。

 

 7月1日、その夢はほとんど絶たれた。私が行きたかった香港はもうない。

 7月2日、彼氏と前日から海岸部にある別荘に行っていた。起きてから朝のニュースを見て300人以上が拘束と流れた時、新しい法律の内容を詳しく読んだ時、このままではもう二度と、乗り継ぎですら香港には行けないのだと理解した。

 7月3日、父と香港の行方について話した。父は、香港人の知っている自由がいずれ勝つだろうと言った。私もそう思いたい。自由には責任が発生するが、全てを引き受けた人間には強い味方だと思いたい。

 

 私の記憶にある、あの懐かしい香港はこのままなくなってしまうのだろうか。

7月4日の朝、「イップマン」が流れる居間でそう悲しくなった。

箸の持ち方、そのほかのいろいろ

 Twitterを見ていると、色々なものが話題になる。箸の持ち方なんて、何回もトレンドに入っているのじゃないだろうか。

 SNSをやっている親、育児アカウントという人たちも、「ちゃんと持てた方が良い」「どうでも良い」と意見が分かれていたりするのを見かける。

 

 個人的な意見としては、箸の持ち方や魚の食べ方はとても厳しいくらいに躾けて構わないと思う。それこそ正しく持てなければ食べられなくても仕方ない、朝飯だろうが晩飯だろうが抜きで結構である。

 これについて、それはひどいと言う人もいるかもしれない。ただ、私はこうして躾けられてそれを感謝する出来事があった。今日はそれを書こうと思う。

 

 私の父は基本的に子供にとても甘い人だが、箸の持ち方や魚の食べ方については現代人とは思われないほど口喧しく、少しでも間違った持ち方をすると手を叩かれて箸を叩き落とされた。爪にあざができるほどしたたかに打たれ、朝ご飯を二口ほどしか食べられず学校に行ったこともある。夕飯は何時間かかろうが正しい持ち方で食べきるまで注意され続けた。矯正箸なんぞ邪道と思ったのか、ただの箸で練習させ泣きながら食べる日が続きながらも、少しづつちゃんと持てるようになり、今となっては他人に持ち方を褒められるようになった。

 

 昔の私は、「食えりゃいいじゃないか。」と思っていた。きっと、そう思う人が今はもっと多くなってきているだろうと思う。

でも、そういうことではない。文化としての箸、という難しい専門分野の話でもない。ただ一つ、「自分が恥をかくから」だけである。

 言いにくいことだし、そんなことがあってはならないことだが、箸をちゃんと持てない=バックグラウンド(育ち、親、周辺環境など)が悪いと考えて付き合う人を選ぶタイプの人々がこの時代にもいるという現実がある。本当にそう思う人は口には出さないだろう。それをはっきりと言うのは品がないからだ。

 もしも、好きになった人の親がこのタイプだったら確実に2人の全てを反対されるだろう。

そんな人こちらからお断りだと思えるなら良いが、人間はそんなに簡単ではない。

他にも、取引先がそういうタイプだったらというパターンもある。

 

 私は、今年の正月にそれを痛感した。彼氏の御母堂様と会うことになり、着物を着て神社に参拝、その後に懐石を食べに行くことになった。この場の設定だけで二十歳そこそこの小娘にとっては折角の料理の味が分からないほどの緊張である。 

 神社の神事中に正座でピクリともせずいられたのも、習っていた武道でやたらに固い床の上で瞑想させられて2時間を過ごすこともあったからできたことである。周りの子たちと私が半ベソをかこうが崩させなかった先生に感謝をした。

 畳の淵を踏まない、敷居を踏まない、参道の端を歩く…ありとあらゆる昔ながらの決まり事を守るべき場面。思わず戦前生まれの曽祖母に、戦中生まれの2人の祖母と大叔母に感謝した。この3人がいなければ知らないうちにしくじっただろう。

 食事の場面では、もちろん箸である。その時に、人さまに褒められるほど綺麗に持てるように躾けてくれた父と母に感謝したのである。あれほど食えりゃいいのにね、と思っていた自分が。

その時に、箸の持ち方はちゃんとしてた方がまあいいよねという考えから、絶対にちゃんとしていないといけないという考えに変わった。

 箸は特に、対面であるが故に他の細かいマナーよりはるかに目立つのだ。逆に言えば、これだけちゃんとしておけば洋間が当たり前の現代は「ちゃんとした現代っ子」といった評価になる場合が多いと思う。

 

 親の立場からすると、「厳しくしすぎて嫌われないか、トラウマにならないか」と心配になるらしい。私の父も、あれほど口喧しくしたくせに心配したらしい。それは子供だから一時期は嫌いにもなるかもしれないが、後から必ず感謝するはずだ。親が子を思うのであれば、その場しのぎのような甘さを持つよりも、厳しく躾ける優しさを持ってほしい。泣こうが喚こうが駄目なものは駄目だと押し通す強さを持って子供に接してほしい。何が1番子供のためになるのか、未来の子供を守るのか、そういうことまで考えて育てるのが親の務めではないだろうか。

父について

 今週のお題「お父さん」…父の日だったもんね。

 

 私の父親はちょっと変わった人だ。髪が金髪だったこともスパイラルパーマだったこともあるし、まっ黄色のダウンジャケットを着てその下はアロハシャツだったり、おおよそのことを「自分が好きだから」で決める人だ。

 自分の娘が中学生にもなったら公開授業に来る親なんて一握りだが、父は毎回のように父親らしからぬ服装で来ては1時間参観し、笑顔で手を振って帰っていく。荒れた中学のスクールカースト最底辺だった私は、その後少し居づらい気分だったりした。

 

 スーツを着た父なんて、人が結婚した時か亡くなった時しか見ない。夏はアロハシャツやTシャツに短パンとサンダル。冬はジーパンにタイダイのパーカーや真っ黄色のダウン。プロレスラーのような体型にスパイラルパーマでアロハシャツはなかなか目立つ。

 そして結婚20年以上経っている母のことを可愛い可愛いと言い続け、結婚式の写真を見せては「ママがどれだけ可愛いか」を力説してくる。実にご馳走様である。両親がキスをするところを見たことがない人がいるらしいが、我が家では日常的なことである。

 酒が一滴も飲めない体質なのに面白いからという理由で飲み会に呼ばれ、飲めないのに呼んで悪いという酒飲みたちにコーラとウーロン茶をガブガブ飲まされている。義父(私の祖父)も父を連れて焼鳥屋に行くのが好きだ。年末年始の父は飲めない飲み会続きで我が家では太鼓持ちとすらあだ名されている。

 車が大好きで、ラジコンに釣り、カメラ、革、とにかくいろいろなことが大好きで豆腐作りにハマったりうどんを打ち始めたりと何にでも好奇心を示す器用な人だ。しかし、絵は全く描けずアンパンマン……(?)のようなものがやっとだ。

 

 これだけ書いたら父親という枠で見るとちょっと変わった人だと分かってもらえると思う。それを引っ張ったりついて行ったり叱ったりする母もまた変わった人ではある。変わった人に恵まれ、やはり祖父母もちょっと変わった人、そのまた曽祖父母も変わった人、変わり者同士がくっついていく家系なのだろうか。 

 そんな父を慕う彼氏も変わっている。なんなら父に似ている。真冬の戸外で2時間も車の話をしていた。カメラと写真が大好きで酒が好き。私の家に来ては父と趣味の話をして母とヱビスを飲んでいる。

普通に我が家に泊まり、ご飯を食べている。「お母さんの料理最高ですね!」さては何にも言わない弟に飯を食わせることより彼氏に食わせる方が楽しいんじゃないだろうか……?すかさず父がお代わりをしようと立ち上がりながら「そうだろう、そうだろう。」そして二杯目は太るのでやめろと叱られ手ぶらで戻ってくる。

 

 父と母が早くに結婚したのは、私が産まれるとなったからである。「お前が来たからママと結婚できたんだ。俺にとっては天使だ。」と小さい頃から言われて育った。実際、私ができなかったら母は生涯結婚しなかったかもしれない。(本人談)

父は、夢を叶えて生きてきた人である。自力も他力も運も含めて、大抵の夢は叶えてきたようだし叶えるつもりのようだ。

 そんな私に「早く結婚しろ。」「俺はお前の結婚式で糸を歌うんだ!」などと今は楽しそうに言っているが私にはわかる。いざ結婚式となったら、私が嫁に行くとなったら、スーツより慣れないモーニングを着た父は周りを憚らず男泣きに泣くだろう。そんな予定はまだないので答え合わせはできないが、そんな気がする。

彼氏からの「可愛くないよね」について

 Twitterを見ていると、「彼氏が私に可愛いと言ってくれない(要約)」という誰しも一度は経験してもやもやするなり泣くなりする問題が毎日起きている。

    私も似たような経験がある。当時の彼氏からの

「あんまり可愛くないよね」

そしてその一言から、

「元カノは普通の顔だった」

と繋げられた時は本当に悲しかったし整形も考えた。別れて数年経った今となっては、言われたところで「じゃあ普通の顔の元カノと付き合ってれば良かったのに……あ、フラれたんでしたね(笑)」と鼻で笑ってしまうのだが。しかしなぜ私と付き合った?

 

 そう言われて当時は悲しい思いをしたのだが、その時は「仕方ない、私が可愛くないから」と諦めて努力をした。

 ありとあらゆることを言われたので、並べたてて同じ思いをした他人に勇気を与える立派な墓にしてやろうと思う。「可愛くない」「元カノは普通」「前の彼女は君島かれんに似てたけどお前は…(笑)」「痩せたらマシになるんじゃない?」「(可愛くないから)お前と一緒にいる時とか手を繋いでる時は人に見られたくない」どうだろう?ザッと思い出すだけでこれくらいは週二回レベルで言われていた。

 

 お前、なぜ私と付き合った?

 

こんなボロクソに言える相手と普通は付き合わないであろう。精神と肉体が分離しているのではないかというレベルで考えと行動が違う。

 私が悪いんだという1番いけない考え方にハマり、とにかく努力をし続けた。し続けながら、「彼は私にとって何なのだろう、彼にとって私とは」と考えながら腹筋やスクワット、腕立てにヨガやらウェイトトレーニングをメニューを変えながら毎日毎日していた。数ヶ月過ぎ、体が変化してきた。そして髪の毛が邪魔だったので3ミリで丸刈りにした。ひたすら筋トレを繰り返してタンパク質を摂取、砂糖無し炭水化物は朝のみという生活を続けた。

 

 家族は急に髪を全て刈り落とし、メイクもせずひたすら体を鍛える娘を見て心配していた。

そして、ある日突然

「あいつ、なんなんだよ」

と思った。クソ野郎じゃねえか。顔だけじゃねえか。顔が少々良いからちょっとマシに見えてしまうだけで、大したことはないのだ。器も小さい。大してセックスもうまくない。頭は良いかもしれないが、だからどうしたというのか。今更、頭脳が何のアドバンテージになるというのか。

 2年間付き合ったが、好きでなくなった瞬間はあっけなかった。あれ、好きだったはずなんだけどな。

 結婚してあげてもいいよ、とも言われていたが、「あげてもいいよってなんだよ。してくださいだろうが。舐めてんのか?」ヤンキー根性爆発でそう言った。彼は黙った。そりゃそうだ。前回、同じことを言った時は「本当に?」とか喜んでた女に「冗談だよ」とかふざけたこと抜かしてニヤニヤしていたのだから。

 

 出会った時からちょっと前までの大人しくて従順で何を言っても怒らなかったあのボブカットの後輩女子はすでにいないのである。いるのは腹筋を4つに割った坊主頭のヤンキー女である。

 学習しないのだろうか?以前と同じように可愛くないとかなんだとか抜かすので、

「お前、ブン殴られてぇのか?(原文ママ)」

とか、そういう見た目に関する面白くない冗談を言いかけた時に「テメェ、理解して言ってんのか?(原文ママ)」と言っていた。

 本気で殴られると思ったのか、段々と何も言わなくなっていく。私はめんどくせえ奴、言い返されたら何も言えねぇのかよチンケな野郎だなァ、とか思って幻滅していたので自分から連絡をしない。

 

 そして会わない間は別の男と遊びまくり、電話も無視である。可愛いとか言わない彼氏より気の合う男である。

 クリスマスイブも別の男と過ごしたうえ、その人と付き合う話がまとまったので、

「無理だわ、別れよう」(原文ママ)

と新しい彼氏と泊まりに行った先で告げた。電話する時間も嫌だったので、LINEで終了である。しかも何と返ってきたのか全く覚えていない。(クズ)

 

 新しい彼氏も3か月ほどするとよく分からない要求をしてきて非常に面倒くさい男になった。こちらは時間を無駄にしている暇はないのである。そこで、面白そうな男と青森に行くことにした。(下衆)

 そしてすったもんだを繰り返し、さんざっぱら浮気をし、泥酔と気絶を繰り返し、最終的には青森に行った男と現在付き合っている。

 

 今、付き合っている彼は私に「可愛くない」と言ったことが一度もない。「可愛い」「綺麗」「素晴らしい」とは言われる。

「日本中の綺麗な場所に連れて行く」と言われたが、それだって本当だった。私は運転できないので助手席にいるだけだが秋田まで連れて行ってくれた。私に面倒くさいことは要求せず、適度に褒めてくれ、2人で色々なところへ旅行に行く。タバコを吸おうが酒を飲もうが小言を言われない。2人で蕎麦屋に行き、ピースを吸いながら日本酒と蕎麦と漬物で過ごす夕方もある。京都の喫茶店で朝ごはんのパンケーキを食べながらお土産の算段をすることもある。2人で海や山に行ってみたり、アフタヌーンティーに行くこともある。

 

 色々と道を間違えてとんでもなく荒らし回ったりしてしまったが(彼は全て知っている)、今はとても幸せである。自分の自己肯定感を潰してくるような恋人なんぞ捨てて構わないと思う。その時はたまに後悔するかもしれないが、数年経てばこんな笑い話になる。この人以外考えられない!とか、私なんか好きになってくれるなんて……という思い込みはそいつと一緒にさっさと捨ててしまえばいい。そいつ以外に好きになってくれる人はいくらでもいる。

 

 可愛いと言わない男にわざわざ言わせるより、最初からそう言う男と一緒にいた方が幸せである。

 

 男も女も掃いて捨てるほどいる。自分が好みのタイプの好みのタイプになるより、自分のことが好みな異性の中で自分の好みの人を探した方が堅実で無理がない。

 自分を相手好みに作り変えると、気にいられようとしているからか基本的に下に見られてたとえ叶っても苦労をする場合が多い。好きだから、頼むから付き合ってくれと言ったりそう見せた方が弱くなるのは当たり前である。

 

 それに、ちょっとくらいなら騙しても構わない。「まあ、この女に騙されてやろう……たんとお騙し」とちょっと良い関係になってきたあたりで男は思うのだ。(痴人の愛より)

 世の中の今時の男女はやれフェミニズムミソジニーインセルだとか女がどうした男がなんだとか言っているが、結局は男女間の争いと恋愛はなんでもありである。どれだけ自分にある武器を使えるかが勝敗の決め手である。

 その議論が悪いことだとは思わない。世の中はそうして良くなっていくのだろうから。ただ、綺麗事を言ったところで一皮剥けば人間なんてそんなもんではないかと思うだけだ。

 

 だから、綺麗事通りに順当に……と思うと挫折してわざわざ傷つく道を選ぶ羽目になる。自分は女で、好きなのは男であればどんな手を使おうが自分が思うような幸せに近づけば良い。(ただ、ここで相手が既婚者はルール違反である。彼女持ちは反則ギリギリ、殺られても文句なしである)

    意地汚いとかあばずれだとかビッチとか同じ女から言われようが、自分が一番可愛いのだから気にしてはいけない。そう言う正義を振り回す者こそを蹴落として踏み台にして勝たなくてはならない。

 一種の生き物として、恋愛の場での同性の馴れ合いや仲良しこよしほど邪魔なものはない。足を引っ張られて気づいたら取り残されるだけである。遺伝子を持つ生き物としてこれほどの敗北はない。

 

 私はそう思って生きてきた結果、友達が数人しかいない。

それでいい。それは人としてどうかと思う、なんて理想論をぶつけてくるような人とは友達になれない。人間は人間である前に動物である。個人的な体験を言わせてもらうと、理想論をぶつけてくる者に限って当たり前のように寝取る。だったら最初から堂々と「私は手段として寝取る。」と宣言した方が良い。その方がよっぽど誠実である。自分がしれっとそれをやられて実に不快な気分になったので、私は堂々と宣言することにしている。

 

 万人ウケは無理だが、万人に対して正直であることはできる。どちらにせよ恨みを買うことになるのであれば、表に出て分かりやすく恨みを買うことはできる。女は男の恨みがかかればかかるほど美しく見える。(谷崎潤一郎)

女の恨みで綺麗になれるかは知らないが、恨みを買わなければならなくなったら堂々と買えばいい。それで平気な顔をして歩けばいい。

 

 ここまで書いて思うが、こんな女を好きになって一年以上も一緒にいられる彼氏はだいぶおかしい。この考えをしたやつが恋人だったら普通は逃げ出すと思う。全て知っているのにそばにいてくれるので、今までよりずっと大切にしようと思った。