好きなもの雑記

好きなものについて色々書きます。たまに愚痴る

箸の持ち方、そのほかのいろいろ

 Twitterを見ていると、色々なものが話題になる。箸の持ち方なんて、何回もトレンドに入っているのじゃないだろうか。

 SNSをやっている親、育児アカウントという人たちも、「ちゃんと持てた方が良い」「どうでも良い」と意見が分かれていたりするのを見かける。

 

 個人的な意見としては、箸の持ち方や魚の食べ方はとても厳しいくらいに躾けて構わないと思う。それこそ正しく持てなければ食べられなくても仕方ない、朝飯だろうが晩飯だろうが抜きで結構である。

 これについて、それはひどいと言う人もいるかもしれない。ただ、私はこうして躾けられてそれを感謝する出来事があった。今日はそれを書こうと思う。

 

 私の父は基本的に子供にとても甘い人だが、箸の持ち方や魚の食べ方については現代人とは思われないほど口喧しく、少しでも間違った持ち方をすると手を叩かれて箸を叩き落とされた。爪にあざができるほどしたたかに打たれ、朝ご飯を二口ほどしか食べられず学校に行ったこともある。夕飯は何時間かかろうが正しい持ち方で食べきるまで注意され続けた。矯正箸なんぞ邪道と思ったのか、ただの箸で練習させ泣きながら食べる日が続きながらも、少しづつちゃんと持てるようになり、今となっては他人に持ち方を褒められるようになった。

 

 昔の私は、「食えりゃいいじゃないか。」と思っていた。きっと、そう思う人が今はもっと多くなってきているだろうと思う。

でも、そういうことではない。文化としての箸、という難しい専門分野の話でもない。ただ一つ、「自分が恥をかくから」だけである。

 言いにくいことだし、そんなことがあってはならないことだが、箸をちゃんと持てない=バックグラウンド(育ち、親、周辺環境など)が悪いと考えて付き合う人を選ぶタイプの人々がこの時代にもいるという現実がある。本当にそう思う人は口には出さないだろう。それをはっきりと言うのは品がないからだ。

 もしも、好きになった人の親がこのタイプだったら確実に2人の全てを反対されるだろう。

そんな人こちらからお断りだと思えるなら良いが、人間はそんなに簡単ではない。

他にも、取引先がそういうタイプだったらというパターンもある。

 

 私は、今年の正月にそれを痛感した。彼氏の御母堂様と会うことになり、着物を着て神社に参拝、その後に懐石を食べに行くことになった。この場の設定だけで二十歳そこそこの小娘にとっては折角の料理の味が分からないほどの緊張である。 

 神社の神事中に正座でピクリともせずいられたのも、習っていた武道でやたらに固い床の上で瞑想させられて2時間を過ごすこともあったからできたことである。周りの子たちと私が半ベソをかこうが崩させなかった先生に感謝をした。

 畳の淵を踏まない、敷居を踏まない、参道の端を歩く…ありとあらゆる昔ながらの決まり事を守るべき場面。思わず戦前生まれの曽祖母に、戦中生まれの2人の祖母と大叔母に感謝した。この3人がいなければ知らないうちにしくじっただろう。

 食事の場面では、もちろん箸である。その時に、人さまに褒められるほど綺麗に持てるように躾けてくれた父と母に感謝したのである。あれほど食えりゃいいのにね、と思っていた自分が。

その時に、箸の持ち方はちゃんとしてた方がまあいいよねという考えから、絶対にちゃんとしていないといけないという考えに変わった。

 箸は特に、対面であるが故に他の細かいマナーよりはるかに目立つのだ。逆に言えば、これだけちゃんとしておけば洋間が当たり前の現代は「ちゃんとした現代っ子」といった評価になる場合が多いと思う。

 

 親の立場からすると、「厳しくしすぎて嫌われないか、トラウマにならないか」と心配になるらしい。私の父も、あれほど口喧しくしたくせに心配したらしい。それは子供だから一時期は嫌いにもなるかもしれないが、後から必ず感謝するはずだ。親が子を思うのであれば、その場しのぎのような甘さを持つよりも、厳しく躾ける優しさを持ってほしい。泣こうが喚こうが駄目なものは駄目だと押し通す強さを持って子供に接してほしい。何が1番子供のためになるのか、未来の子供を守るのか、そういうことまで考えて育てるのが親の務めではないだろうか。