好きなもの雑記

好きなものについて色々書きます。たまに愚痴る

ツィゴイネルワイゼンを観た

 ツィゴイネルワイゼンを観た。それも昨日、渋谷のユーロスペースでデジタルリマスター版が上映されると知って早速行って観た。

 

 まず、私はあらすじを一切見ずに写真だけで犬神家の一族的な八つ墓村のような、横溝正史風味のジトジト映画を期待して行った。

そんな私を打ち砕くように、序盤のクレジットでスチールが荒木経惟、出演に麿赤兒と出て「これはもしかしたら、私がダメなやつかもしれない」とうっすら思った。

そして最初の女の水死体の股から真っ赤な蟹が出てくるシーンでそれは確信に変わった。

その次の琵琶を持った瞽女3人組(男2人女1人)の女が、琵琶に合わせて股を閉じたり開いたりするのを村人が眺めているシーンで「やっぱりこの映画、高熱を出した時か胃腸炎の時に見る悪夢だ…」と思った。

 

 そこから先は中砂が話すたびに麻原彰晃がチラつき、色々としんどかった。

そして途中、砂地で緊縛暗黒舞踊が始まった瞬間になんとか理解しようと思っていた精神が消え、「この映画、今ここにいる人の誰にもわかってねぇんじゃねえかな…」みたいな気分になってしまった。

 しかも私は今、妊娠8ヶ月である。その少し前からお腹が頻繁に張ってきていて、HPとMPを吸い取られている感があった。

 

 なんて胎教に悪い映画なんだろうか…などと思いながら、結局は最後まで観た。

そして帰り道に、一緒に観ていた夫が「最後のシーンの小銭って何?」と聞いてきた。

この人は20代後半だが通夜・葬式に1回も出たことがないのであった。

あれは三途の川の渡し賃で六文銭だと教えながら、帰宅した。

 

 そのあと帰宅して夜10時ごろから更に頻繁にお腹が張り、急いで救急外来にかかった。

普段全くお腹が張らないので半泣きになって病院に行った。

結局無事であったが、1万ちょっとかかってしまった。

無事に越したことはないので構わないのだが、ツィゴイネルワイゼンを観ることはもう二度とないだろう。

 私の父はタイタニックを見るたびに、何回もひどい盲腸だ急性肝炎だとそれぞれ1ヶ月ほど入院していた。

それ以来、我が家ではタイタニックが流されることもなく、金曜ロードショーで放送されてもスルーである。

父曰く、自分にとってタイタニックは呪いの映画とのことだ。

 私も映画のせいでこうなったとは言わないが、今回はなんだか色々と吸い取られたような気がしてならない。

ぶつかりおじさんの傾向と対策

 女性なら一度は被害に遭うぶつかりおじさん。

私もたまに遭遇します。彼らがなぜそんなことをするのか理解できませんが、私なりの対処法をここに書いておきます。

 

 まず、「ああ、あいつぶつかってくるな」と感じるジジイを先に見つけておきます。急にぶつかられるから反撃もせず逃してしまうのです。先に目をつけておけばぶつかられた直後に怒鳴りつけられます。

 次に、案の定ぶつかってきたら一歩も譲らず身体に力を入れて動かないようにします。相手はこちらが退くと思い込んでいるのでそこまで全力でぶつかってはきていません。こちらは退かない覚悟でぶつかりましょう。クソバカぶつかりおじさんに世間の常識を分からせるぶつかり稽古ですので、手を抜かずにぶつかりましょう。すると相手がよろけますので、すかさずメンチを切って舌打ちします。

 相手は、「きゃっ…」みたいな反応しか予測していませんので、この時点で逃げようとします。

深追いしない場合はここで見逃してやって良いでしょう。何かブツクサ言ってる場合は、大きな声で「ぶつかってんじゃねぇぞ!前見て歩けジジイ!」とでも言っておきましょう。

何度かやられて怒りが溜まっている場合は、鬼越トマホークをお手本に「オイ!待て!ぶつかって謝罪もなしかコラァ!」とでも怒鳴りつけておきましょう。大抵のクソバカぶつかりおじさんはビビって小声で謝ってきます。

 なんで謝ってくれたのかというと、大型犬より立ち向かってくる小型犬の方が怖いからです。加減を知らずに噛み付いてくる奴って怖いですからね。

 

 そもそも、女にぶつかってストレス発散しているようなジジイは強く出られるとしゅんとしてしまいます。ガチでヤバいジジイは誰にでもぶつかっています。ゴミカスなりにその辺りの常識は弁えていますので、非は自分にあることをうっすら理解はしています。

 強そうな者にぶつかることができない時点で理性があります。女で弱そうだから舐められただけです。自分はお前のことを怒鳴りつけられるぞと最初にマウントを取れば、彼らはクソバカ低脳ですが謝罪くらいはできます。

 

 個人的に怒鳴りつけたくなるポイントは、彼氏と歩いてる時はぶつかってこないのに、1人だとぶつかってくる浅ましさです。

 多分、殴られるのが嫌なんだと思いますが、私たちの場合は彼氏の方が遥かに手足が出ませんし、こういう時に人を怒鳴りつけたりしません。キレる沸点も私の方がだいぶ低いです。彼氏は格闘技や武道の経験はありませんが私にはあります。

見た目で分かることでしか判断せずにぶつかってくるあたりが1番腹立たしいです。

 

 ぶつかりおじさんがこれを読んでいたら、今までの行いを反省して二度とするんじゃねえぞ。

二度としないでください、とか頼む形になるのも腹立つんだわ。次ぶつかってきたらブン殴るからな。

梅雨の時期は傘があるから気をつけて前見て歩けよ。私は今までやった武道の中で棒状の物で他人を殴りつけたりするのが1番得意だったからな。

それと寝技できるから落ちるまで締めるぞ。最悪の場合、失禁する羽目になるから二度とぶつかるなよ。

 あと、女の方がショートテンパー多いから気をつけろよ。私みたいに嫌がらせしてきた人間を3年間監視し続けたり、嫌いな人間は10年単位でSNSアカウントやらブログまで調べ上げてネットで監視する粘着人間にぶつかると毎日のように駅にいるかチェックされて後をつけられて監視されるぞ。

 

シン・エヴァンゲリオンを観た感想(ネタバレ注意)

 シン・エヴァンゲリオンを観た。実はファンでもなんでもなく、本当のところファーストガンダムが一番好きなので、恋人がエヴァファンでなかったら地上波初登場まで観なかったであろう。

 まず、一年位前に観てみろよ!と猛プッシュされて26話を一日で一気に観た。

とても面白かったからこそ、一日中観ることができたと思う。ただ、聖書の知識があまりないため、時折「????」となることがあった。そのあたりは恋人に聞いてなんとか解決できた。

そのくらいしか分かっておらず、観ておらず、こんな奴がシン・エヴァを観に行くのはファンにも監督にも失礼では?と思った。

 

 そして数日前に観に行った。

恋人が取った回は席が揺れたりするタイプで、序盤は酔ったり急な風にビビったりと映画どころではなくなりかけたが、なんとか慣れてちゃんと観てきた。

 感想は、とても面白かった(単純)。ミサトさんが命を逃す方舟を命を守る方舟に変え、リツコさんがゲンドウを撃ち、サクラが泣きながらシンジくんを止めたりするのを観るにつけ、共感ばかりであった。

 ミサトさんが加持さんと一緒に行かなかったのは加持くんがいたからで、さらに攻撃に出たのも彼が生きていたからだと思う。

アニメ版ではミサトさんが初号機の暴走に驚いていたが、今作のミサトさんなら理解できるんじゃないかなと思った。

あのラストのミサトさんは、例え加持さんが生きていて自分が行くと言っても絶対に譲らなかったし、息子の元に戻れと言うと思う。

 ユイさんがシンジくんが取るつもりであったケジメを引き受けたのもこれだと思う。

私が思うに(完全に想像だが)、ユイさんはゲンドウの妻であったけれど、母親役もやっていたのかなと思う。

シンジくんの母として彼を新しい世界へと送って、ゲンドウの妻(母的な意味合い含む)としてゲンドウの責任を半分持った。

 

 ゲンドウは、最後の最後で息子に謝ることができた。彼もそこでようやく大人になれたと思う。

シンジくんに自分の過去を話して、自分も君と同じ理由で怖かったのだと話す姿は、ようやく父としての役目を認識したのだと思った。

遺された息子に怖くて向き合えないが、心の奥底では抱きしめてやりたかったんじゃなかったんだろうか。その一方で、ユイからの愛を産まれた時から無条件で受けるシンジくんは敵でもあったんだろう。

自分だって最初からああやって愛を受け取りたかった、なんで息子は生まれた時から…と、ゲンドウが歳を食った子供であるからこその愛憎入り混じる感情が彼をここまでさせたのかなと思う。

 

 自分が恋愛をしてきた感覚として(私は女性なので対象は男性に偏るが)、性格がどうにもできないところでねじ曲がっていたり、自分ではどうにもならない部分で辛い経験をしてきた男性は、ゲンドウのような思考が微妙にあったりする。

そういう人は、付き合う女性に母を見出そうとしがちでもある。母親との触れ合いが薄かったり、無条件に人から受け入れてほしかったり、自分が自分であるということをただ愛してほしい人や、孤独で一人の人ばかりだった。

 だから、ゲンドウを案外可愛い人だと言うユイの気持ちも分かる。冬月教授が、そうは思えないのは同性の年上でまともに父性があったからだと思う。

 

 最後に、ゲンドウという圧倒的に近寄りがたい父からすまなかったと謝られたシンジくんについてだ。

子供にとって、まだ子供の時に親から「あの時はごめん」と謝られることほどどうしようもなくて虚しい気分になることはない。親はそれでややスッキリするが、子供側はさらにモヤモヤを抱えたりする。

ゲンドウが謝るのがあの時点でよかったと本当に思う。シンジくんが成長する前に謝ると、それはそれで彼の中で暗黒が始まってしまう。

 親の謝罪を受け入れられるのは、子供が大人になってからだ。親も自分と同じ悩む人間と心から納得していないと、「なんで今謝るんだ!じゃあやらなきゃよかっただろ!いつも自分勝手に振り回して、もう嫌だ!」と拒否反応しか出ないと思う。

 あの謝罪で初めて二人は親子としての人間関係ができたのだと思う。あの時にゲンドウはシンジくんを息子として愛していたし、シンジくんもゲンドウをまともにお父さんと呼べたんじゃないだろうか。

成長したシンジくんは、このことで過去を振り切って真っ直ぐ生きていけると思う。思春期に抱えた壮絶な疑いが晴れて、自分は父と母から望まれて産まれ、愛されていた確信が持てたからだ。自分の子供を愛していなかったら、ゲンドウは産まれてくる子に名前を2通りも用意していないはずだ。

 とにかく、全員が救われてよかったと思う。このままみんな幸せに生きていってほしいと願ってしまう。

 アスカも彼女らしい居場所を見つけて安心した。ケンスケくらい器のデカイ男でなければ、アスカは手に負えない。

個人的にはシンジ×アスカという組み合わせよりもかなりしっくりきた。

シンジくんへの想いを振り切って、ケンスケといることを選んだアスカは強くて賢いと思う。

そしてケンスケは、一生アスカの頭を撫で続けて幸せに暮らしてほしい。

 

 ということを踏まえて、恋人に質問をした。

「あなたとあたしが結婚して子供が1人いるとする。あたしか子供かどちらか1人だけ生かす方を選ばなきゃいけなくなったらどちらを選ぶ?」

私は、恋人は私を選ぶだろうと予想していた。理由は、彼にとってその子供は唯一無二の存在でもなく、命を賭けた存在でもないからだ。

「うーん、あなただね」

予想通りの答えで思わずやっぱり!と笑ってしまった。その理由も予想通りであった。

「あなたはその状況でどうするの?」と質問された。

そんなのは決まっている。3人の中で1人が死ぬことは変わらないのだから、自分が死んで夫と子供を生かす。

命をかけて産んだ子と、その子を欲しいと思わせた男とどちらか選ばなければならないなら、自分が死んだ方がマシである。

それと、これは彼には言わなかったしただの逃げかつ無責任でしかないが、どちらかがいない世界で生きることに私は絶対に耐えられない。だったら私以外の2人で生き残ってほしい。

 

 とにかく、いろんなことを考えられる良い映画だったなと思う。

座席が揺れないバージョンでもう一度観たい。

違和感の紅茶、確信のアイス

 最近、寒くなってきた。寒くなると同時に、彼が新居へ引っ越した。

その手伝いのため、新居へ向かった。家電が運び込まれつつもまだ殺風景な部屋。寝室と仕事部屋は陽が良く当たり、ベランダは暖かい。

 

 ダイニングテーブルに、彼はコーヒーで私は紅茶を飲みながら腰かけていた。なんだか慣れない、変な感じがする。

彼と一緒にいる時は、大体の場合は車に乗っているので横並びか、明らかに周りに人がいるレストランが圧倒的に多かったから。

 人の顔を凝視しても、目が合っても視線を逸らさずにいられる私が、思わずちょっと下を向いてしまった。

そのくらい変な感じで、簡単に言うと出会ってから今まで、ここまで照れたことがあるかというほど照れてしまっていた。

 そんな私をちょっと不審がりながら、彼はたばこを吸っていた。私が1番、今の自分が不審と思っているだろうに。

 

 まだ荷物が運びきれていない中、本棚に少し本があった。

1番端っこに、『ラヴ・ユー・トーキョー』があった。一年前、写真に詳しくない私は、アラーキーをギリギリ知っているレベルで、しかもその印象は「ご飯をまずそうに撮る人」であった。

多分、もっと見るべきところはあるんだろう。写真をやっている彼は「ご飯をまずそうに撮る人ね。本当に写真が上手なの?」という、私の無知かつ失礼極まりない発言に苦笑していた。

 でも、ちょっとずつ写真を教えてもらったり見たり、調べたりしているうちにすごい人と理解した。

よくもまあ、ご飯を不味そうに撮る人ね、なんて言ったものだ。

 そんなことを思い出しながら、ページをめくりつつ日向ぼっこをしていた。強烈なアンモニア臭がしそうな新宿の写真を見ていたら、彼がこっちを見ていた。

見つめ返すと、私の微妙な表情を読み違えたのか、あとから本はたくさん来るからもう少し待てと言った。

私の本も持ってくる、と答えながら、ページをめくり続ける。

 

 新宿、彼と初めて会ったのも新宿だった。その日は雨の新宿で、夜ご飯に一緒にポテトサラダを混ぜた。

別れを告げようとした上野駅、でもその別れを保留にしたのは新宿だった。

付き合う前から付き合って数ヶ月目くらいまでは、新宿に2人で出かけるたびに雨だった。5回か6回、連続で雨が降った。歌舞伎町近くに泊まった日は、ゴールデン街で飲むうちに降り始め、ホテルで朝に目覚めた時も雨だった。

一時期は、2人で車に乗って通りかかるだけで通り雨だった。

気づくとそんなことはなくなった。雨降って地固まるということだろうか。

 

 写真集を棚に戻し、ベランダで並んでたばこを吸った。

なんか変な感じ、と私は言った。

彼も、ほんとにね、と言った。

おそらく、彼は自分のテリトリーに他人を入れることに、私は他人のテリトリーに入ることに慣れていない。

 もう1年半くらい一緒にいて、4日間も東北を走り回ったり、いろんな温泉に行ったり、日暮れの鴨川沿いを歩いたり、イノダコーヒーでホットケーキの朝ごはんを食べたり、近所の河原にピクニックしたり、季節を一巡りして数えきれない数の朝昼夕と寝食を共にしたのに、慣れないこともあるんだなぁと新鮮に思った。

 お互いによくやるミスは分かっていて、「気をつけろよ」と声をかけあうのに、どちらかの領域で顔を突き合わせてお茶を飲むのに変な緊張感があるのは不思議な感じだった。

 

 昼間は家具や細かいものと食料の買い出しで、家に何を置くだとかなんだとか相談し、協力して大量の荷物を家に運び入れて梱包を剥がし、彼は家具を組み立てて私は夜ご飯を作った。

出来上がる直前で、ちょうど彼がちょっと早く組み立てが終わり、出汁巻卵を作ると言ったので任せて、洗い物や買ったものの整理をしていた。

 卵を焼き終わった彼は食器にそれをよそいながら、「ハーゲンダッツ買ってくるけど、何味が良い?レモンサワー買うタイミングはこれで最後だよ」と言った。いちご味と檸檬堂を頼んで、料理の続きをした。

 彼がアイスと檸檬堂を買って帰ってくると、ちょうど出来上がるところだった。

アイスをしまうと、さっさとランチョンマットにお盆を出し、卓上コンロをセットしてくれていた。

 鍋をコンロに乗せ、グラスとお猪口と取り皿を出して、冷やしておいた2人のお気に入りの日本酒をわけもなく2人でうっとりと眺める。

このコロナ禍で、なかなか酒蔵に行けずに飲めなくなっていたのだ。地酒のため、東京にはなかなかない。置いているお店を探し歩いているくらいだ。

そんなお酒を彼が引っ越しの用事の忙しい合間に2本買ってきたのだった。

 鍋を2人でつつきながら、大好きなお酒を飲み、お気に入りの動画を見る。

 気づいたら、最初の不思議な緊張感や慣れない変な感じも照れもなくなっていた。

2人で色々と相談しながら協力して一日を過ごしたことがそういったものをなくしたのだろう。

 

 デザートのアイスを食べながら、私は彼と一緒にいたら必ず幸せになれると思った。彼が幸せになれるかは知らないけど。

 でも、私以外で彼に着いていける人がいるだろうか。西日が差す車内で、2時間も放置され飲み物がなくなり干からびかけても、極寒の秋田で膀胱が限界を迎えて身体が震えていようがトイレに寄っている暇もなく、夜ご飯すら食べる時間がないスケジュールなどなど、写真!写真!写真!である。

デートだって当たり前に潰れて、久しぶりのまともなデートだからとヒールを履いたのに、待ち合わせ場所で予定変更を告げられてそのまま撮影に出発、結局山でアブに食われたり、頭上をブンブンとスズメバチが行き交ったり、今日こそまともなレストランに行けるかと思いきや写真撮るぞ、でレストランにさよなら…。

私はこれはこれで楽しいし、まあいっか、好きなだけ撮れ撮れ、なんて言って昼寝している。なんならまともなデートだけだとちょっとつまらない、くらいに思っている。(さすがに干からびかけた時はちょっと睨んだ。)

 多分、彼に着いていける人はなかなかいない。上記を楽しめるなり耐えられるなりしたうえ、自分の情けない顔や、ご飯しか見ていない顔などを高画質に撮られてもピィピィ言ってはいけない。へえ〜、変な顔!くらいに捉えて気にしない人でなければ3日くらいでケンカ三昧の日々になるだろう。

同業者でもいけない。絶対にケンカをする。方向性の違いというわけだ。そのライティングは云々とアドバイスのつもりが大げんか、交渉決裂でさよなら…となるに違いない。

 だから、彼は私といれば比較的幸せなんじゃないだろうか。実際のところは分からないけど。

 

イッセイミヤケの衝撃

 私は、洋服が嫌いだった。特に最近の肩にフリルが付いているような、ぼんやりした色合いの洋服が非常に苦手だった。

 身長は平均だが、典型的な骨格ストレートに所々骨格ナチュラルを混ぜたような体型に合う服を見つけられなかった。

思春期に入る頃から、その時々の流行りの洋服が似合わないうえにサイズによっては入らず、自分は何を着てもムダだと思っていた。

 

 そんな私が、唯一大好きだった服は着物であった。着方を工夫すれば、気になる肩幅や胸はどうにでもなる。なにより、着られなくなったり飽きがきたものは帯に仕立て変えたり、羽織りにしたりできる。それゆえ布をほとんど無限にリサイクルできる。

 周りからの視線も気にならない。似合うか似合わないかの前に、「着物を着ている」印象が強くて、普段から着る人がいない限りはそういったことが全く分からない。流行りも洋服と比べて激しく動くわけでもなく、色柄を選べば何歳になっても着られる物というところも大好きなポイントであった。

 

 そんな私を一年半ほど見ていた彼氏が、絶対に似合う服があると言い、私をイッセイミヤケに連れて行った。

彼はヨウジヤマモトが大好きで、モモンガのような真っ黒のパンツを良く履いている。そして、それがとても良く似合っている。

 もちろん私は似合うはずがないと思ったので、いやいや似合うかよ、今まで洋服が似合わなかったんだぞ、と言いながら店に押し込まれた。

 

 イッセイミヤケに押し込まれ、今まで触ったことのないタイプの洋服が並ぶ店内で怖気づいた。

服屋に行くこと自体が一年ぶりで、それまでたまに適当な洋服と自分好みの着物で済ませてきたのだから当たり前だ。

 彼がとても推してくる袴のようなパンツを試着することになり、仕方なしに試着室に入り試着をした。

 あれっ、と思った。腰回りがとてもスッキリしている。尻が目立たないどころか、体のラインに綺麗に沿って布が落ちる。

前の骨盤の骨の間を繋ぐように切り替えが入って、脚の付け根あたりまで止められたプリーツがもも上までをまっすぐにカバーして、その下は自然に任せて布が揺れる。

 思わず買うことを決めた。洋服が似合わないかもしれないという恐れが少し消えた。

上に着るものを選ぼうとなった時に、店員さんが黒の細かいプリーツの入った長袖を持ってきてくれた。

 

 平面で見た時に、襟が丸首だしとても似合わないのではと思いつつも、せっかくだし試着をしてみようと思って着てみた。

 衝撃的だった。プリーツがきつくかかっているから、自分の体のラインに自然に寄り添っている。締め付け感もない。縫い目もゴロゴロしない。動きやすい。

縫い目がないゆえに私を十数年間に幾度となく絶望させた肩の縫い目からのはみ出しがない。感動的だった。

 私がサイズを探したり痩せて服に合わせるのではなく、服が私の身体に合わせてくれた。

自動的にマイサイズになるため、スッキリした見た目になる。大抵の場合ぴったりしたものは苦しいが、この服は伸縮性があるため自在に布が動く。

 

 試着室から出て、店員さんが「袖が長かったり、長袖に飽きたらガイドラインに沿って着ると調整できます。ガイドライン以外で切ってもほつれないので微調整できますよ〜。」と言った時に、私はイッセイミヤケに恋に落ちた。

 これが一番の衝撃だった。洋服が、こんなふうに形を変えることはあまりない。長袖は長袖、半袖は半袖なのに、この服は長袖が半袖になれる。

個人的に、この融通の利き方は洋服ではあり得なかった。洋服は縫い目で全てが決まっていた。着物では着付け次第でいくらでも融通が利くのに。

 自分でハサミを入れて形が変わる。こんなに素晴らしい服があるだろうか。自分の身体に合わせてくれるうえに、自分で身体に合わせるアプローチも可能だなんて!

 

 自分で構造に手が入れられて、着られる物側が着る人に合わせる服が人に似合わないわけがない。

このブランドなら、イッセイミヤケなら、全部着られると確信した。

恐らく、比較的似合う似合わないはあるだろうが、他の洋服メーカーのように壊滅的にいけないものはないと思った。

 初めて、洋服を選ぶのが楽しくなった。洋服を好きになった。

 

 そのあとも、色々な店を見て回ったがイッセイミヤケを超えるものはなかった。

多分、私は一生イッセイミヤケを着るだろう。今までここまで刺さった服も、恋した服もない。

これからそうなる服が出てくるとも思えない。シンプルで普遍的な形を、ここまで人に寄り添う物にできる人もいないと思う。

 

 久しぶりに優しいデザインに出会って感激してしまった。とにかく、服と出会わせてくれた彼氏と試着をすすめてくれた店員さん、デザイナーさん、縫製さん、生地屋さんと三宅一生さんに感謝したいと思った。

 

 もう、これでいいやとか投げやりな気持ちで服を選ばない。それに、服が欲しかったらイッセイミヤケに行けばいい。

 

あの香水の歌が癪に触る理由

 私は今流行りの、あの香水の歌が大嫌いである。

歌詞は概ね「香水のせいで過去の女を思い出しちゃった、ドルガバの香水のせいだよエーン」という、女が腐ったようなものである。

 こんな心境になる男は女が腐ったような奴だが、3年ぶりに連絡を寄越すような女も女が腐ったような奴である。

 

 大体、この3年間に男は何をしていたのか。ドルガバの香水をつける女と付き合うくらいだから、そこそこ経験もあるはずである。3年の間に別の女ができる、彼女が現在進行形でいるという線すらある。

 また君にフラれるんだと言っているが、当たり前だ。3年間もグズグズする男をもう一度好きになれると思っているのか?

 それに、遅かれ早かれ、新しい彼女に過去の女に関する失言をしてフラれる。

次は何の香水のせいだ?Diorか?CHANELか?Jillか?

 別に君といたいわけじゃない…みたいなネチネチした態度も気に入らない。じゃあなぜ思い出すんだ?ああ、ドルガバのせいか。君はこれから先も何かのせいにして自分の弱さから逃げるのか。

 元カノがタバコ吸ってることについて悲しくない、君が変わっただけだから…実に気に入らない。だからお前はフラれるんだ。個人の選択を、悲しくないよ悲しくないよ、とわざわざ言うからだ。お前が変わらなさすぎるだけである。

 

 3年ぶりに連絡を寄越した女もなんなんだ?

結局この男が良かったな〜とか思っての「いつ空いてるの?」なのか?

3年間も取っ替え引っ替えであったのに、自分の香水の匂いを忘れられない女々しい男が最高だったのか?

最初からその見る目のなさを窺い知れるが、本当に見る目がない。

 その男に新しい女がいたらどうする?修羅場で勝つつもりか?あたしみたいな女がその男の彼女だったら、この女は路上でボコボコにされる。

そんな危険なことをするつもりなのだろうか。まあ、するんだろう。破れ鍋に綴じ蓋みたいな男と女だもんな。2人とも仲良くボコボコである。

 女は全てフォルトゥーナである。後ろ髪はない。チャンスと女は後から掴めないものだ。

わざわざ掴ませに行くあたりが女が腐ったような女である所以である。後から掴めるとか貧乏神かよ。

 

 それに、結局会ってんじゃねぇか。

君と楽しい頃に戻りたいわけじゃないけど戻りたい。「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」の劣化最新版か? マイクロソフトWindows XP以降はクソだもんな。

 やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」を聴いてからこういう歌を書いてほしい。

甘ったれやがってふざけるな、ドルガバの香水のせいにしている限り何も良いことはない。

 あの人が恋しいなら「横浜ホンキートンク・ブルース」を松田優作ばりに一度だけ歌いあげて新しい女を探しに行け。しなしななよなよしてるからこんな目に遭うのだ。さっぱり忘れてしまえ。

 

 後から掴めるものに価値があるか?

チャンスは2度も来ない。後から来るチャンスと思ってしまうものは大抵がネズミ講みたいなインチキ貧乏神だろうが。だからお前はドルガバ女に良いように使われるんだ。どうせ手頃な年収、まあまあの容姿、軽く優しくて優柔不断なんだろう。1番制御しやすくて吸い取りやすい。こういう女は全て吸い取るぞ。えー、どうしようかな…とかやってる間に。

 

 香水に共感できない歪んだ人間も不幸だが、共感できる人間も不幸である。

照明について

 一年前の初秋、私は国道7号を走っていた。

正確に言うなら、走っていたというより、司馬遼太郎さんのように助手席に座っていた。

 青森に向かって走ると、助手席側が海側になる。

昼であれば穏やかで深い青色をした日本海が見え、目にも嬉しい風景だがその時は深夜3時であった。

ただただ真っ黒な波のない海が空との境界線もない。無限の闇が広がっているように見える。

 自分たち以外には人の気配もなく、左を向けば海、右を向けば山。波のほかに音も聞こえず、耳鳴りがするほど静かであった。

 内陸部に比べて湿気があり、潮風で肌がべたつく。気温も生温い。遠くに公衆電話の光がぽつんとある。今どき、あんな場所にある電話を誰が使うというのか。

 

 車が止まり、私はそんな状況で1人になった。

彼は写真を撮りにさっさとどこかに行ってしまう。

耳が痛いほどの静寂と、真っ黒な海、車のライトに照らされた奇岩の崖。

 とても耐えられない。妙な汗をかき、全く寒くないのに体が震えだした。歯まで鳴るほどに震えた。

 

 その時に、ゴーっとすごい音がこちらに近づいてきた。大きなトラックが、新潟方面に走っていった。そのあとはまた静まりかえり、ひたすら1分が長い。

 ぽつぽつとある家も明かりはなく、久しぶりにこんなに怖い集落に出くわした。数ヶ月前の外ヶ浜にあった漁村も降り頻るみぞれの中で灰色に並んでいた。

 

 東京の街を、けばけばしいネオンで飾る人間を不思議に思っていたが気持ちが良くわかった。暗闇にいると人間は明かりを求める。都心が夜中までこういった恐怖感を抱かせないのは、必ずある誰かの存在感、空が明るくなるほど過剰な照明があるからだ。

 人間は蛾を嫌がるが、人間だって蛾みたいなものだ。蛍光灯に当たる蛾を見て笑っていたが、私だって都心の灯りに集まる蛾の中の1匹であった。誰かいないと怖い、明かりがないと怖い。

 人間が嫌いなのに、周りに見知らぬ人がいることに無意識に支えられていたのだ。無駄につけられた照明に不安感を消されていたのだ。

 

 このことがあって、私は照明が好きになった。穏やかな灯りは、人の心を落ち着かせる。

谷崎潤一郎の陰翳礼讃は、特に闇と影の大切さを説くが、その二つを活かすのはまさに灯りであると身をもって知った。隅から隅まで照らし尽くすのも良くないが、暗すぎるのも良くない。

 それからというもの、退勤中の電車の車窓から見えるタワーマンション群の灯りを眺めながらちょうど良い照明を考えている。